Friday, August 26, 2005

記憶の力

人の記憶システムには人それぞれのパターンがあることをしみじみ感じた。
私のある外国人の知人は日本に2年近く住んでいながら、日本語を喋れるどころか、ほとんど理解出来ないままでいる。そしてこの彼は、驚くほど単語を覚えない。
一度何かを教えてあげて、10分ごとに覚えているかどうか確認すると、もうだめ。焦り始める。
明らかに、記憶の枠からぶっとんでしまった所在不明の単語を必死で捜し求めるさまよいの表情を見せるのだ。
何度教えてあげてもダメ。何度ユーアーホープレスと呟いたことか。

昨日、そのホープレスな知人とお寿司を食べに行った。
寿司はマグロとサーモンしか食べたくないという彼に、ネギトロを食わした所、好評。
あぶりトロを食わした所、大好評。
その名を覚えようと何度も何度も繰り返しつぶやき、回転バーの上に回ってくるたびに、「これがネギトロだな!」と重複チェックを怠らない。
情熱はあるのだ。覚えようとする意志と気力は充分に。
ところがそれらが身を結ぶことはない。どんな情熱を持ってネギトロやあぶりトロに接したところで10分後には記憶のかなたに浮遊しており、途方にくれるのだ。
彼の記憶のシステムとはそういう風にできており、私を何度も驚かせる。
何も3.14以降のパイの数字を暗記しろと言ってるわけではない。
たかがネギトロだ。ね・ぎ・と・ろ。たったの4つの語の組み合わせだ。
そのネギトロという語彙は、10分後には息絶えている。
彼の記憶の世界では、薄命の哀れな運命を背負う、それがネギトロだ。

どころが、そんなホープレスな彼の記憶力システムには私と違うソフトがインストールされていることが判明した。
物の名前や人の名前を、どんな努力を持ってもつなぎとめられない彼の頭の中には、私の想像を遥かに超える、別の力が存在する。
それは、目で見た風景や情景を、イメージとしてそのままインプットしておける、そういう力だ。
簡単に言うと、彼の目はカメラのレンズで、脳がフィルムみたいなもの。
シャッターを押すと、そこに誰がいたか、どこに何があったか、その場面がそのまま残る。
具体的に説明しよう。初めて行った日本食レストランが気に入って、再度訪れたと時のこと。
前回と同じ席に座った。前回の席くらいは私だって覚えている。
ところが彼は、前回私達の周りのどの席に、どんな人間が座っていたか、いつ店に入ってきたのか、どのタイミングでトイレに立ったのか、何色の服を着ていたのか、いつ店を出たのか、覚えているという。
れだけその記憶が確かかどうか、釈明はできないが、本当だとしたらスゴイ。
だって私はそれらのうち、何一つ覚えてないんだから。
覚えているということは、それに注目し何かしらの印象を得ているということだ。
私にとって、レストランでの自分が食べている範囲のことだけが私の関心事を注ぎ込む全てであり、それ以外のまわりの人間が誰でいつ来て何を着ているかなんて眼中にない。
私は本当に自分しか見てない人間である。
そんな私からすると、この人は異様だ。
なぜそんな、自分と直接関わりのない、周囲に関しての情報が頭に残っているのか。

また、こんなこともあった。また別の場所にご飯を食べに行った。
その場所に行くのは私も彼も初めてで、その地域に足を踏み入れたことさえなかった。
電車で行った。次回は車で行こうということになった。
さて、どこに駐車するかが問題だ。
その時彼は、そのレストラン周辺500M以内の駐車場の場所を全て言い当てた。
ここよりあっちの方が広い、とか、そこよりこっちのほうが近い、とか、そういう具合に。
これまた衝撃的だ。
私が食い物と飲み物のことだけで頭を一杯にしていた初回の訪問時に、彼はこれだけの情報をインプットし、見事それを再現して見せたのだ。
私なんて、レストランの周りに駐車場があったかどうかさえ覚えていなかった。
ある意味ちょっと恥ずかしいわけである。

彼はその能力について自覚症状もあるらしく、ちょっと誇らしげに私に語った所によると、職場の人間が無くし物をして、探しているものを「あそこで見た」としょっちゅう言い当てることができたり、初対面の人間の名前は忘れても、持ち物や容姿等は鮮明に覚えているらしい。
私なんて、初対面の人間ときちんと挨拶をし、名刺を交換し、かなり長時間話をしたとしても、1週間後にはその人物がメガネをかけていたかどうかさえも忘れる人間なのだ。
そんな私にとって、彼の能力は羨むべきもの以外の何物でもない。
だってそれこそ人間が生きていく上で必要な記憶力ではないだろうか?!
ネギトロの名前を覚えることなんて、数学者にもならない凡人が微分積分を勉強するようなものだ。
一生日本を出ずに暮らし通す筋金入りの愛国者がルーマニア語を勉強するようなものだ。
ネギトロの色、形、匂い、様子、そしてその味と、どこでそれが食べられるかを鮮明に思い出せる能力の方が、どれだけ日常生活で役立つことだろう!!!
私があれだけバカにしていた彼の記憶力。
それは、ホープレスどころか、ホープフル、そんな記憶力なのだ。

悟った私は態度を改めた。そして考えた。
彼と私の記憶の能力が発揮できる分野の違いというのは、きっと育った環境の中でどんな能力が必要とされてきたが、その境遇が生んだものだとおもう。
水泳選手の指の間にはヒレが発生するとか、高山に住む人は脈拍数が少なくてすむとかいったように、必要に応じて、環境に合わせるようにして、人間の体の仕組みは変化できるようになっている。
だから、記憶できる物の得意不得意も同じように、環境によって人それぞれ違うのではないか。
例えば、日本人の記憶の得意分野は、受験勉強から得た、詰め込み式暗記というフィールドかもしれないし、モンゴル人の記憶の得意分野は、荒野で馬の数を目で見て数えられることかもしれないし、とにかくそうやって、文化によって記憶能力って、変わるんじゃないかな?

そんな風に、体のフィジカルな仕組みだけでなく、記憶の仕組みまで、人間というのは環境に適応させることができる。のではないかと思うと。
面白くって、人間やめられない。

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