Sunday, May 08, 2005

偶然の力

今、この下のコロンバインについての文を書き終えた瞬間、家に電話がかかってきた。
私宛に、家に電話がかかってくることなんてめったにないから、
どうせセールスか何かだと思って、相手にしてなかったら、
なんと。
カナダの高校で一緒だった、日本人の友達からの電話だった。
びっくりした。
でも、声が変わってなくて、すぐにわかった。
たぶん5年以上は連絡しあってなかった。
突然の電話で、本当に本当にびっくりした。
そして、ちょうど私がカナダの高校生活を思い出してたのと同じタイミングで電話が来たことに、
何かのものすごい力を感じてしまった。

こういうことがあると、人生はドラマチックに設定されてるかもって、思ってしまう。。。
単純だー

no easy answers, the truth behind death at columbine

華氏911が世界中で大注目された。数年前のこと。
マイケルムーアは現代のジャーナリストの中で今一番世界中に名を知られているんじゃないかと思う。
少なくとも、世界の政治に精通しているわけでもない、
社会問題について真剣に論議できるほどの知識があるわけでもない、
私みたいな普通の市民達にとって、マイケルムーアが初めての、身近な、そしてインパクトのあるジャーナリストである。
マイケルムーアは、私みたいな普通の市民レベルの大衆に、訴えたい彼のメッセージを、
映画という媒体を使ってこんなにまで近くに迫ることの出来た、初めての人、だと、私は思う。

そんな彼の華氏911の前に発表された作品。。。。。
「ボーリング・フォー・コロンバイン」は、
華氏911を見たときより、ずーっと低くて力強い、がぃん!という衝撃音を持って私の脳ミソに襲い掛かった。去年の夏だった。
私は大阪にいた。一人で、ウィークリーマンションの一室で、
夕ご飯を食べながら、ビールを飲みながら、一人で、3回連続で、
心斎橋のツタヤでレンタルしたDVDを、見続けた。
場面が変わるたびに、新たな事実が伝えられるたびに、私は誰かを自分の隣に欲した。
次から次へとむくむく生まれてくる疑問を誰かにぶつけたかったし、
嫌悪感とかむかっぱらとか、そういう「悪」の感情を誰かとシェアしたかった。
どうして、どうして、どうして。
アメリカという国のあほらしさとか、危険さとか、無気力さとか、こっけいさとか、
経済に対しての観念とか、メディアに踊らされてるCHICKENな姿とか、自分本位さとか、
いろんないろんなむかむかが、この映画にははちきれそうなくらいに詰め込まれてて、
とにかく、アメリカという国を違う目で見れるようになる、きっかけをもらった。
私が住んでいた一年間のアメリカ、笑いと刺激と穏やかさを見たあの国とは、
まったく別のものに見えた。
もちろん、今でもあの頃の自分が生活していたアメリカという国で学んだこと、
出会った人、感じたこと、とても大事だし、それを批判するつもりもない。
でも今、違う目でアメリカを見ようとすると、見れてしまう。
強者の国。
お金の国。
エゴの国。
そういう風にも、見れるようになってしまった。悲しいけど。
特に「アメリカの高校」を、ダークな印象なしには想像できなくなってしまった。
アメリカの高校生にとって、学校は地獄みたい。
自由がなくて、大人(教師)のずるさを目の当たりにし、
勉強する意味は、卒業して学校から抜け出すためだけ、そこにだけ存在する。

先週、ELEPHANTという映画を見た。
コロンバイン高校の銃殺事件をモチーフにした映画で、
コロンバインでの日常が淡々と描かれていた。
生徒達が学校でどんな風に振舞っているか、勉学に、スポーツに、どんな風な姿勢で取り組んでいるか、友達や恋人とどんな風に付き合っているか、が、映画の前半で淡々と、ただ、淡々と描かれている。
私は17のときに通っていたカナダの高校を思い出していた。
コロンバインは、あのカナダの田舎町の、小さな平凡な公立の高校と、何も違わなかった。
スポーツの出来る体格のいい男子は無条件でもてていたし、
金髪でへそを出すお姉ちゃんは怖いものなしって感じではしゃいでたし、
所詮小さな田舎町で10数年しか人生を知らないんだから、
そんな生徒達は誰一人として垢抜けているはずもない。
でも、当時の彼らにとって生活の全てだった学校というコミュニティーの中では、
目立っていたし、憧れられていたし、何につけても中心にいる権利が与えられていた。
実際、私も「なんてクールな人たちなんだ!」って、どきどきの眼差しで見ていた時期もあった。
反対に、
服のセンスが悪い太った子はどんなに面倒見がよくてもうざがられていたし、
よれよれしたTシャツにぼそぼそ声で話す暗い男子は、陰で笑われていた。
今の私の年になれば、おばちゃんタイプの女友達は、その優しさがダサさをフォローして、
周りにスイートな人間として扱われるようになることを知っているし、
オタク少年は、将来プログラミングやエンジニア系に抜群に強くなって周りに頼られたり、
熱中出来る何かがあるという点において、うらやましがられたりするようになることも、知ってる。
だけど、やっぱり、
ティーンエイジャーの世界の中では、winnerと loserの境界線がはっきりと引かれてしまっていた。
私は留学生で、言葉もへろんへろんで、きょとんとしてることが多かったので、
winnerにも loserにも 属さずにいられた。
派手で目立つ子には、小さい子をあやすみたいに遊んでもらったし、
地味で目立たない子には、無条件で優しくしてもらった。
私の通っていた高校は、コロンバインみたいないじめはほとんどなかったと思う。
からかったり、陰口言ったり、あざ笑ったり、まったくなかったわけではないけど、
それなりにみんな普通に話していたし、自分と別のグループに属してる人でも、
特に不親切に接するわけでもなく、ダサい子は、まぁ無視しとけばいいわねってくらいなもんだった。
でも、授業風景、施設環境、生徒のタイプ、学校周辺の家並みなどは、
映画の中のコロンバインと、私の実体験したダートマスは、何も違っていなかった。
だから、映画の中でも明確にしていなかったけど、この事件の犯人達の、
本当の動機もわからないし、どうして突然平和(そうに見えた)な学校が
大虐殺の現場に変わってしまったのか、理解することは難しい。
ダートマスのあの高校が、コロンバインになりえたかもしれないって、想像するのは、難しい。
まさか、と思う。
でも、今の私の気持ちと同じように、まさか、ってあの時コロンバインの生徒達は思っていたはずだ。

映画の中では、監督はあえてこの事件の犯人の動機をわからないままにしている。
だって、本当にわからないんだから。誰が犯人の気持ちをわかるだろうか?
もしも回りの人間が犯人の気持ちを理解できていたら、こんな事件が起こる前に、
阻止する方法が何かしらあったはずだと思う。
でも、誰も知りえなかった。
なぜなら、彼らが受けていたいじめや屈辱やあきらめは、あまりにも日常に埋もれてしまっていたから。

今私は、コロンバイン・ハイスクール・ダイアリーという、
元コロンバイン高校の生徒で犯人の二人と友達だったブルックスという少年が書いた本を読んでいる。 
これを読むと、コロンバイン高校の日常が見えてくる。映画よりも、もっと具体的に。
犯人達は、目立つやつら(特にジョックスと呼ばれるスポーツ馬鹿)にいじめをうけていたし、劣等感を持っていたし、見てみぬふりをする大人に腹を立てていたし、同時にあきらめてもいた。
きっと、自分の人生はこれ以上のものには成りえないっていう、あきらめ。
他人への怒りと、自分へのあきらめが、細かく書かれていて、
事件が起こった当時、メディアが騒ぎ立てていた、単なる憶測とかこじつけとかに
あまり興味を持っていなかった私にとっては、するりと簡単に理解できる内容だった。
パソコンのゲームのせいだとか、暴力的な映画のせいだとか、
いろんなことが当時騒がれていたらしいけど、私はあまりニュースを見ないので、
結構知らないことが多かった。
どちらにしろいえるのは、メディアが騒いだ内容は本当かも知れないし、本当じゃないかもしれないってこと。
ゲームとか映画のせいだって、どうして決め付けることができるんだろう?
それが正しいって確信はどうやったって得られない。
だって、犯人達が経験したこと、日々の中で感じていたことは他の誰にもわからないことだし、
何が犯人達の犯行の理由の一部に成りえたか、という予想をすることは勝手だけど、
それが理由の全部に成るわけがないし、そんなにまで人間は単純じゃないことだって、
テレビや新聞のレポーターの皆さんも知ってるでしょう。
ただ、真実として言えることは、
犯人達は、他人が想像もできないような方法「殺人」でしか、彼らの思いを表現できなかったということ・・・
そして、第二の犯人を生み出す可能性を秘めた学校、コミュニティーは、
自分達の周りに、当たり前の生活の中に、あるということ・・・
こんな悲しい事件は、自分が普通だと思っている、なんてことない日常から突然顔を出すものであり、
自分がそこに関わる、もしくは自分の大切な人たちがもう関わっている可能性は、ある。ということを、
もう一度、私は考えてみたい。

Monday, May 02, 2005

quote from chi

"good books should travel just like good people should travel"

and I will add "then good souls travel with them"